∞の庵

5人しかいないけれど、5人がいる

誰のためでもなく自分のために思う存分歌え

昨日ヤスのレンジャーが更新され
コージを演じ終えた感想と感謝が熱く切々と語られ
想像以上の覚悟をもって挑み続け、心身を削り、
全てを注いで見せてくれていたことが伝わった。

舞台の感想をポチポチ書いていたが
ヤスのあんなレンジャーを読むともう
自分の気持ちなんぞどうでもよくなってしまい
とにかくお疲れ様でした、の言葉しかしばらくは出ず、
何度か読み返して生きて帰ってきてくれてありがとう、が
やっとでてきたくらい胸が一杯になった。

それでもつらつらと思い出すと
腹の底の底から絞り出して魂込めて歌うコージを見て
言いたいことを言葉にできないが
歌うことで表現できていると見抜いた六角さん演じる師匠に
「生き辛いだろう…」と言われて初めて
自分の事を知れた瞬間のコージの顔が目に浮かぶ

それは二次元で表現されるものではなくその説得力がいる。
「人の心に響く演歌を歌う」ことを演じるためには
ヤスにとっては自分の歌唱力との戦いもあり
どれほどの努力をしたのだろう。
演技だけではない大きな壁があったろう。

ヤクザに叩きのめされている時に声をあげ歌うと
暴力の手を止めさせるほどの迫力がある歌なのだ。
表現するプレッシャーはどれほどだっただろう。
「ヤスなら大丈夫だと思っていたよ」なんて
ファンのお気楽な気持ちでは流せない。

体をくねらせ、仰け反りながら喉を震わせる姿は
すごいものを見せられているのだという実感と共に
絞り出す声が心に刺さった。

最初は東京に出てきてもコージの純真さが社会には辛く
テレサを助けたくても助けられずに
ボコボコに殴られるシーンも見ているだけで辛く
大好きな高田聖子さんがステージのど真ん中で
1人ストリッパー姿でブリッジした時に
やっと笑ってホッと一息つけたほどしんどかった。

そんなだからか、何かと理屈こねたがる自分が
この舞台を見て何をどう楽しんだのか整理がつかず
なかなか俺節の感想が進まずにいた先日、
とうとうしんちゃん1人がMCとなってしまった
カラオケ仕分けの延長番組の「音楽チャンプ」を見ていたら
カラオケ採点ロボットの横に座る音楽のプロが
カラオケチャンピオンの経験がある男性の
これまでの自分の殻を破り魂込めて歌う姿を見て
「カラオケの音楽が生音に聞こえるほど良かった。
カラオケの機械の点数は良くないかも知れないけれど
人間はちゃんと聞いています。
そうゆう歌を歌える人になって下さい」
とおっしゃったのを聞いて泣きそうになった。
(記憶が薄れているので表現の違いはご容赦を)

これを聴いた時にまさしくコージを思い出した。
歌が歌いたくても人前では恥ずかしく
上手に歌っても思うように人の心には響かず
「歌を歌う」ということがわからなかったコージ。
そんなコージに
「他人のために歌うとは何様だ。
歌を否定されたら自分の全ても否定されるくらいの歌を歌え」
といったような意味の大切なことを
西岡さん演じる北野先生は言ってくれた。

誰かに聞かせるためじゃなくて、その歌は自分であり
歌がどうしようもなく好きな自分が自分の為に歌うからこそ
聞いている人が自分に置き換えた時に感動する。
図らずも同時期に見た舞台と音楽バラエティが
同じことを熱く伝えてくれて
もう俺節の感想はこれでいいのではないかと気付いた。

そりゃヤスのラブシーンとか可愛らしい方言とか
衝撃や萌えもたくさんあったけれど
あの最後の土砂降りの雨の中、愛する人を目の前に
自分の生きている意味を見つけた歌を歌い
歌を作ったオキナワや支えてくれた人達のことも
全部が自分の幸せとして見出させた姿が全てで
それを舞台の一コマとして見て聞いた観客が
感動したことが全てじゃないかと思った。

ラストシーン、
その歌でコージが有名になれたわけでもなく
また横丁に帰ってきたこともリアルで
大成功を収めた横丁ドリーム的な話になっていたら
本物の演歌にはならなかったかもしれない。
だからこそこの俺節はいいのだ。

実際に歌を作り、アイドルとして歌うヤスが
この役から得たものは計り知れない。
腹の底から全てを吐き出して歌って演じたヤスの中に
吐き出した分吸い込んだものはどれほど大きいだろう。

簡単に生き死にを口に出せるものではないけれど
本当に命をかけてくれたことが伝わってたからこそ
削ぎ落としたモノが違う形で血肉になって
これからヤスが見せてくれるものが楽しみでならない。

でも
ちゃんと生きて帰ってきてくれてありがとう。

ゆっくり休んでね、と言ってあげられないほどに
もう次のヤスがすぐに楽しみ過ぎて申し訳ない。


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